昭和50年02月18日 月次祭



 信心は親に孝行するも同じ事ぞやと教えておられます。信心は親に孝行するも同じ事。容易い様で難しい、難しい様で容易い、そんな感じが致します。親に安心してもらうとか、親に喜んでもらうと言う事が親孝行ですけれども。何かの時にはそれが親子の情と言う物が出て参りまして、矢張り親子じゃなあと言う様な事になりますけれども。普通は親孝行せねばならない事は分かっておっても、親に心配をかけたり親の思いに背いたりしておるので御座います。
 親孝行位実は容易いものはないのだけれども、なかなか難しいだからその気になれば難しい事はない、容易いのである。信心は親に孝行するも同じ事。そういう心が神様に向かえば、おかげが受けられるお徳が受けられるというのが、お道の信心なのです。ただ熱心に拝む参ると言う事だけでは。只こう言う人のたまがる様なおかげを受けたというだけでは、本当な事ではない。まあでも親に孝行すると言う、そういう信条が信心の芯を貫いておかなければならない。
 昨日一昨日だったでしょうか。御神前でこう言う事を頂いたんです。「いの一番に命ある事」と頂いた。そしていの一番と言う事は一つですから、ずうっと2つ、3つ、4つ、5つと、5つ迄数え歌風に頂いた。もう何ともそれはもう素晴らしい事だったんですけれども。御祈念終わった時にはもう忘れてしまっておった。素晴らしい事だったけれど。只其のいの一番と言う所、いの一番に命ある事と。
 もう命があると言う事が、御礼の第一番でなからなければならんと言うのです。ね、例えば朝目が覚めた。今日もお生かしのおかげを頂いておったと言う事が、もう何よりもの喜びであると言う様な信心にならなければならないと言うのです。ね。でなからなければならないのに、目が覚めた、ああ今日も又きつい仕事せんならん、難儀な事だと言う様な事ではいけないっちゅうんです。ね。
 いの一番。いの一番に神様にお礼を申し上げさせて頂く事は、今日もお生かしのおかげを頂いておると言う事であり、例えば痛い痒いがあっても、ね、生きておるからこそ、命があるからこそ痛いのである、痒いのであると言う所に立脚致しますと、それは有り難い事だと言う事になって来る。全てがそうである。難儀を感ずると言うても、ね、死んでおればもう難儀を感ずる事はないのである。心配である不安である、難儀を感ずる。生きておる印なのだと言う事です。
 いの一番に命ある事。いの一番に命あると言う事。命があると言う事を御礼を申し上げると言う信心。そう言う信心がだんだん分かって来る為にです、矢張り信心は親に孝行するも同じ事ぞやと言う様な信心が、身に付いて来なければならない。天地との繋がり関わり合いと言う物がです、確かに親子の情それを持って繋がりを保っておる様に。そこの所の兼ね合いと言う物を実感する。それが信仰体験である。神様なればこそ親なればこそと言うのであります。
 久し振りで今日のお月次祭に大黒様がズラッと並んでおられます。今度の大黒様は違うんです。今度はもう皆んながあの、打出の小槌を右に持って御座るとやった、今度今日、今度から左に持って御座るです。いや私は夕べ聞かせて頂きましてね、ほおら今まで買うた人がしもうた、是は替えち貰おうごたるちゅう人が出て来るじゃろうち言うて、言うた事でした。皆さんもご承知の様に、大体左持ちの打出の小槌を左に持って御座る大黒様が、本当の合楽の大黒様なんです。ね。
 所が中々左に持って御座る大黒様じゃないです。永瀬さんが、あの福岡に勤務しておられる時分に、何処で探されたかそれこそ一寸八ぐらいな、それこそ観音様じゃないけれども、此の位ばっかりの見事な備前焼の大黒様を何処からか見付けて見えてお供えになった時、もう言うなら二十何年も前の話なんです。それが左持ちです。左に打出の小槌を持って御座る。今日のは皆左に持って御座る。ね。言うなら右から左に持ち替えなさったという感じであります。
 是は中々ね、あの左利きの人が右にこうやって物を持つだけでも大変なやっぱ修行らしいです。善導寺の久保山の所謂東京で今、すし屋をしております二番目の息子さんであると同時に、東京支部の支部長でもある訳です。この人は子供の時から左利きだった。ですからその寿司屋さんですから、包丁を持つのに、左利きのが右に持ち直しただけでも、人一倍の修行であったと言うております。
 その代り僕にはこちらが突付かれたら、はっとこっちへ持ち替えてこうジャージャーもう両方やる訳なん。だから人の一倍も二倍もの仕事も出けるし、勿論垢抜けした仕事も、まあ出ける訳であります。ね。だからまあ信心は容易いものとは言うけれども、信心は親に孝行するも同じ事ですから、そういう精神でするのですから、そんなら容易い事ですけれども。その容易い親孝行が実は出けないんだと言う事です。ね。親に心配かけちゃならん、親にいやもう喜んで貰わにゃならんそれが親孝行なんだけれども。
 親に喜んでもやっぱり何時も親に心配ばかり掛け取ると言う様な事では、親孝行ではないそこで親にはもう本当に孝行しようごつして堪らんちゅうごつならなければいけんと、私は言うんです言うと皆んなです。矢張り親に本当の親不孝こそしとらんけれども、親孝行が出けとらんから改めて心を親に向けるという、こう言う事をしたならば親が悲しむだろう。こう言う事をしたら親が喜ぶに違いはないと言う様な所に、生き調子と言う物を発見して。生きて行く生き方が其処から自ずと生まれて来る訳であります。ね。
 けれども矢張りそこにはです、何時も言うならば丁度右利きの人が、あっ左利きの人が右に包丁を持ち替えるくらいな精進は、何時も心掛けとかなければ、ついつい今まで同じ事になってしまうと言う事です。本気で親孝行しようごつして堪らんと言う心がです。ね。何時の間にか無くなっておる。何時も心に掛けておかなければ、ね。それこそ何時も四六時中、自分の心の中に、親に喜んで貰いたい、親に安心を持って貰いたい。
 そういう言うならば思いと言う物が続けられる。それが丁度左利きの人が右利きにこれを持つ様な物ではなかろうかと思います。その位に矢張り心に掛けとかなければ親孝行て言う物は出けんもんだと言う事。それが芯になってしまう。それがもう血に肉になってしまう所からね、本当の親孝行ていうのは出来けるのでしょうけれども。信心はそう言う物だと。今日午後奉仕をさせて頂いておる時に、ほんに二つ、一つ、二つと、こう言う風に頂いたが、どう言う事だったかもうサッパリ見当が付かない。
 見当が付かないけれども、私はこう言う様な風な事を書いてみたんですけれどね。ちょっと聞いてみて下さい。いの一番に命ある事。二つには不意のお試しに、お試しに気をつけよ。三つ目に、見る事見る事、自分を見る事。四つ、良い事悪い事、取次ぎを受けたら皆んな良い事。五つイライラ腹立つ時は、神を外している時ぞと言う風に、五つも出て来た。ね、この五つだけでもです、私は本当に皆さんがこの事に気を付けられたら、親孝行の信心が出ける様になるだろうと思うのです。ね。
 お試しと言う物はです、ね、もう言うならば試験ですから。ね。もう一遍はいや二編も三遍も教えて教えた所を試験に出すのが、試験です。ね。幼稚園の試験に、とても小学校の試験やらを出しはしません。ね、小学生に中学生の試験を出しゃしません。ね。一遍教えた所を、どの位分かっておるかと言うて、するのが試験であります様に。信心も此処は分かり切っておるはずの所なのだけれども、その不意にやられますと、失敗するんです。ね。其処でそのまた失敗をしたと。ね。
 心から思う時にはまだ有り難いですけれども。もうそれが当たり前の様になって来たら駄目です。今日は日田から人連れ参って見えられた。竹野さんやら井手さん辺り。綾部さん達も御一緒でした。その中に井手さんて方が頂いております、そのお夢の中にです。山登りをしよる。何の為に山登りしよるかと言うと、そのラッキョ掘りに行きよると言うのである。らんきょの事です。この辺じゃらんきょち言います。ね。
 そうしてその掘りよるものは、山芋を掘りよる。そして山芋掘りよるかと思うたら、其処にはゴボウがあったと言う様なお話である。ね。山にらっきょ掘りに行きよる。そして、実際に掘りよるのは山芋である。掘り上げて見た所がゴボウじゃったち言う様な、まあ念の入ったお夢を頂いておられます。ね。だから例えば同じ様な事を繰り返す事を、らっきょの皮むきと言うんです。けれども信心はです、例えば始から失敗しない事はありません。又お試しに落第したと言う事もありますけれども。
 落第したという言うならば自覚と言う物があって。ね、はあ是からは落第してはならないと。是からは此の事では、又失敗する様な事があってはならないと言う様にです。言うならば一皮ずつ剥いて行っておる内に、らっきょの皮剥きは同じ事と言うけれども、決して同じ事じゃない。段々段々芯が小もうなって来る。そして終いには無くなって来る。その時が初めて本当なものだと言う事です。
 その頃には長い苦労の間に、それこそ山芋の様に苦労をしておる。掘り上げたら、長い、こんな長いゴボウじゃったと、こう言う。ね。ゴボウと言うのは長う苦労しておる。長う苦労しておると言う事は、長う修行しておると言う事である。だからどういう御用にでも、お使いまわしが頂けれると言うお知らせなんです。御祝儀にも仏事ごとにでも、必ずゴボウは使われます。
 日常茶飯事のお葬祭にも結構です。どう言う事にでも使えれる。それは長く苦労をしておるから。その苦労の内容というのが山芋であり、らっきょの皮むきであると言う事なんです。だからね失敗してはならないと言う事ではない。ね。それはそれは何とももうその言い様のない程に素晴らしい事なんです。そう言う事がです今朝からの御理解なんか頂いておりますと、そういう素晴らしいタイミングが、例えば失敗をしたならです。それにそのお詫びをさせて貰うとか、改まらせて貰うとか。ね。
 その事によってこう言う事が解らせて頂いたと言う事になって来なきゃならん。今朝から、今日昼のお参りの時に、綾部さんのお届けがあってました。今度あっちのお嬢さんが縁に付かれます。もうそれこそもう何と言うですか、置いた者を取る様に素晴らしいおかげを頂いた。もう本当に勿体無い様なおかげを頂いて、両方とも気に行って。貰う貰われると言う所まで話が進んでおる。それがちょっとした話のもつれからです。もうそんなら始から一遍白紙にしようか、ちゅうごとなって来た。ね。
 そういうその心の状態、此処までおかげを頂いておる事を白紙にしようなんて思うその心が既にです、ご無礼であるお粗末であると言う事に気が付いて、神様に心からお詫びをさせて頂いたと、こう言うのである。それもね神様のおかげであると思う事はね、本当に親達はそう言いよるけれども、実際子供達はもう意向を貰おうと言う事になっておりますから、度重なるデートも段々、有り難い事になって行きよる。其処へ丁度その日もデートであの娘さん帰って来て。
 今日はもう兎に角もう見事なその、まあ指輪を頂いた。はあ勿体無い様な思いも掛けない立派な者であった。お母さんお礼を言うて下さい。もうお母さんな、いっちょ白紙にしようかて思いよるとに。もうそん時にね、本当に娘達はこんなにも喜んでおるのにです。しかもそれはもう、本当に是はらっきょの皮むきじゃないけれども、自分で失敗したと感じておる、思うておる。だからもし信心がなかったら、其処迄だったでしょうけれども。信心のおかげで、失敗する中にも金光様。
 夫婦喧嘩をするでも、例えば主人が家内を叩くでも、家内が主人を叩くでも、それは色々ありますからね最近は。必ずしもその男が勝つちゅう事は決まっとらんもん。ばってんね子供の親が、何がね。もう親が方がぎゅうぎゅう言わせられたりね。そうですよこの頃はもう、あの姑とお嫁との仲でもね、そりゃああっちはもう、その嫁さんが可哀想な嫁さんがいじめられると言うのが、普通のケースだったけど、この頃は反対です。もう兎に角嫁子さんの方に、姑親の方がちりちりして御座る。
 と言う様な風にね、時代が段々変わって来たですから。矢張り其の親父がやっぱり叩かれる様な事にもなるかも知れません。はあもう待ってくれち言うた風な事もやっぱ、ある訳なんです。ね。けれども信心させて頂いとるとです。それこそこげなこっじゃいかんと思いながらです、もうその金光様こらえち下さいち言うちから叩きよる。そこがよかとこです。ね。もうそれこそ黙って腹立ちまっただけではない、金光様を念じながら夫婦喧嘩をしておると言う事がみそである。
 そう言う事でも繰り返ししておる内に、はあ自分が悪かった、いやあ私が悪かったと言う様な事になって来て。ね、次に生まれて来るのが、素晴らしいタイミングである。そういう穏やかでない心の所に、娘達夫婦はもう兎に角有り難い。お母さんお礼を言うてくれと言う様な事になって来ておる。もう一変に自分の心の中の者が溶けて流れる様な思いがする。そう言う事を、矢張りお互いが繰り返しておる訳です。繰り返したって、行く度に自分と言う物が無くなって行く。
 我が空しゅうなって行く。ね。二つには不意のお試しに気を付けよと言う事に、一つ何時も心掛けておかなければならん。三つ、見る事、見る事、自分を見る事と言う事である。ね、自分が成しておる様に思うとる。自分がお世話をしよる様に思うとる。ね。それこそ成すと言え、成しうる条件恩恵のなくば成しえず何一つとして、と言う事を忘れてしもうておる。私がしておる、親が、私が、仲人がと言う風にです。もう私がしてあげとる、私がしよる。そのすべての条件が足ろうて。
 おかげを受けなければ出来る事ではないのにも関わらず、ね。それこそ不意を付かれて失敗をしておると言うのである。そういう時に見る事、見る事、自分を見る事と言う事になって来る。自分と言う物を見極めた時に、こう言う事を言う段じゃない、こう言う思い方が間違いである事が、段々解って来る。良い事悪い事、取次ぎを受けたら、皆良い事。兎に角、お取次ぎを頂いての事であるからと、日頃なら解り切っておる事を、不意を突かれると、やり損なっておる。
 お取次ぎを頂いて起きて来る事、全ての事がおかげである、良い事であるという頂き方が、言うなら身に付いて来る迄に。矢張り信心は親に孝行するも同じ事と言う孝行が身に付いてしまうまでは、此処の辺の所でグズグズする。ね。それこそ五つイライラ腹が立つ時は、ね。五つイライラ、腹立つ時は神を外している時ぞと言う事である。はあ、自分は今イライラしよる、腹が立ちよる。見る事見る事自分を見てみると、神様を取り外しておる時だと言う事を解れと言うのであります。
 昨日は親先生の十日祭でしたから、あちらへ参っておりました。そしたらお祭り半ばに熊谷さんが見えて、先生にお目に係たいと言う方がありますので、一緒に同乗しましたと言われる。それでお祭り半ばでしたけれども、お玄関の間で会わせて頂いた。吉井の方で、今度町会議員に立候補すると言うのです。吉井から三人の今度立候補される方がお願いに来てあるが、3人が3人共、是はいっちょ当選して貰わなきゃならんなです。それ皆んなまあもう、その面接して見ると皆んないい方ばっかりです。ね。
 本当に良い方ばっかり。昨日お目にかかった方も、素晴らしい方。お父さんは県会議員か、代議士にまでなられた程の、言うならば政治家系統のお家の息子さんである。もう実に立派な息子さん。物腰と言い器量と言い、まだ若いです。それでそういう、あのわずかばかりの間で御座いますから。私はこう言う事をその方に申しました。僕が例えば町会議員になる事は、もう吉井町の発展に繋がるんだと。吉井の人達が本当に幸せになる事の為に、僕は町会議員に当選のおかげを頂かなければならない。
 次にはね、神様私が当選が致しますと、親が喜びますからという考え方にならなければいけません。私が当選をする。段々政治家の卵ですから、段々もっと素晴らしいその、そのまあ、ね、県会議員にも代議士にもならなきゃならない。ね。ですからねその始に当たってです。ね、町会議員に落選したと言う様な事ではね、親が落胆する、ガッカリするだろう。そこで私が当選を致します事は、第一親が安心いたします親が喜びますから。又私が吉井町を愛しておると言う事においては、誰にも負けません。
 私が吉井町の為にです町会議員に当選したら、吉井町の者が幸せに繋がる事ですから、私の立身じゃない出世じゃない。自分と言う物が中心ではないと言う所をです、私は筋を立てて神様にお願いをなさったら、必ず当選致しますよと言うて、お話をした。帰りにその事を、もう素晴らしい有り難い事をやらせて頂いた、教えて頂いたと言うて大変な感動であったと、今日熊谷さんが言っておられます。ね。
 それこそ神様が一遍でフラフラしなさる様な、その願いの筋と言う物がね只自分の立身、出世の為に只自分一身、一家の事の為だけに祈るとか、信心すると言う様な事は、それは本当な事ではないです。ね。私が言うならば町会議員にならせて頂いたら、その町の言わば幸せに繋がると言う程しの内容を持って、貴方がおらなければいけない。ね。次にね、私が当選のおかげを頂くと言う事は、親が喜びます親が安心してくれます。ね。そう言う祈りを本当に持てたらね。
 もうこの神様は一変にまいってしまいなさる神様です。確かにそうです。親に孝行したいからの一心が、その願いの根本であると言う事などは、素晴らしい願いです。そう言う様な祈りが、全ての事に渡ってです。それが内容になる様な信心をさせて頂くと言う信心がです、信心は親に孝行するも同じ事と言う様な信心が、身に付かなければいけないと思います。これも日田から、竹野さんが何時もお参りになります。ね。
 私がこのいの一番に命ある事と言う事を、昨日一昨日からですか、聞いて貰って。竹野さんは8歳の時に大水の時に、あの橋から落ち込んでその何十メートル流れて、そして助けられた方だそうです。もう医者も難しかろうごと言うたのを助けて頂いた。その助けて頂いた人に、私が娘時代で梶原の家におる間は、毎年お礼に行ったと言うのです。ね。八つの時に、いわば助けてもろうた。ね、もう溺れて死にかかっておるのを、助けて頂いた、そのご恩を忘れん為に毎年お礼に行った。
 所が竹野の家に嫁に行って来て、もう性も変わったんだから良かろう位な気持ちで、そのまま止めておったけれども。このいの一番に命ある事を解らせて頂いたら、今年から早速もう是は一生涯。ね。あの時に助けて頂いたおかげをです、その喜びを今年からもう一変お礼に行く事をやり直させて頂くという意味のお届けがありました。ほれはもう、素晴らしい事ですよね。神様が喜んで下さるですよね。ね。
 今日私がこうやっておかげが頂いておるのもです、あの時貴方から助けて貰ったおかげですと言うて、年に一回位のお礼に出るのは当然の事です。それが段々年が経つに従って、もう性が変わったから良かろう位になってしもうておる所にです、気が付いた。本当に素晴らしい事に気が付いたねと、こう言うてまあ今日は感心した事で御座いますけれども。ね。私はそういう心がね、神様に向けられる様に成って来る事が、信心だと思います。ね。旅しい命ありありてと言う事であります。
 賜った命がありあって今日の私があるんだと言うのです。ね。ですからもう一つその向こうの根本があるのですけれども。そこんところがやはり形式形を言うならばです、本当にあの八歳の時に水に押し流されて、もうこの世の者でもなかった様な所を助けて頂いた。あの方のおかげで助かった。そこで何十年と言う間、娘の間は毎年そこに親がお礼を行く、自分もお礼に行っておった。
 けれどももう嫁に行って性が変わったから、もうそれっきりになっておった事をです、いの一番に命ある事が解らせて頂いた時に、またその事に思いを起こさせて頂けると言う事。ね。そう言う私は切実な心がです神様に向けられると言う事が、信心だと思います。ね。ですから聞けばすぐ解る事ですけれども、実感としてそれをお礼に行かなければおられないと言う様な者は段々それこそ右に持つものを、いや左に持っておったものを右に持ち替えれると言う位な稽古がなされなければ、出ける事ではないのです。ね。
 その位な精進がなされなければ、おかげにならんのです。ね。お話を頂いてそれが自分のものになる。その間にはです繰り返し同じ様な事を失敗もするけれども。それは確かにらっきょの皮むきである。自分と言う物が空しゅうなって一皮ずつむいて行くのである。神様すいませんと言いながら叩いておる。ね。ですから次に生まれて来るタイミングが素晴らしい。ね。夫婦喧嘩でも金光様を唱えながら、夫婦喧嘩である所にです、普通の夫婦喧嘩とは違うわけです。
 そこに次に生まれて来るタイミングが素晴らしいです。ね、綾部さんの話じゃないけれども。俺達はもう白紙にしたっちゃよかごたる風に思いよるとに、当の本人達はもうその後にはです、ね、今日はもうこんな何十万もする様なダイヤの指輪を頂いた。お母さんお礼を言うてくれ。もうそん時には何もなくなってしまって。そのタイミングが素晴らしいね。私は其処ん所聞きよったら、涙がこぼれた。
 本当に此の神様っていう神様は、確かに親じゃな親神様だなと思うです。失敗させながら又次の信心に進ませておられる。そのタイミングが素晴らしい。ね。そしてらっきょの皮むきの様であるけれども、それは愈々自分と言う物が細うなり、無くなって行っておる過程である。ね。そして掘り上げて見た所は、山芋の様に思うておったら、ゴボウであったと言う様な。初めて神様のお役に立つ氏子として。
劣りたてが頂ける様になる。ね。お役に立つと言う事、その事が私は親孝行だと思う。ね。親に孝行しようごつして堪らん。神様に喜んで頂く信心を身に付けたいという、私は願いを持つと言う事。だから願いを持ったらです、一つ本気で教えがね、まだ言わばすんなりと自分の生活の上に頂けない。昨日合楽会でしたが。会の中で西岡先生がお話をしておりました。この頃から御理解を頂いて、一心発起した。
 そしてこの頃お便所に行く度に、十円ずつその入れて行く。そげなこつしよんなら、もうアンタ、行く度に十円ずつあげな。是はもう辛抱しとこうちゅうごたる事になっていかんがち私が言うた事でしたけどね。三遍じゃ30円いる。だからもう三遍ば二遍ばっかりしとこうちゅうごたる風に、始末契約するごつなんならいかんち言うて笑った事ですけれどね。けれどもそういう生き方になんなら。
もう西岡先生もうアンタの健康は、もう間違いないばいて私言うた事でした。お便所に行く度に10円。そういう在り方の中にです、親が子を思い、子がまた親を思い。親は子薬子は親薬と言う様なおかげが現れて来るのです。ね、そして愈々信心が身に付いて来る。それこそ目が覚めた。今日もお生かしのおかげを頂いて有り難いと言う様な信心が身に付いて来るのであります。
 それには一つ此の五つの内容ですよね。二つには不意のお試し気を付けよ。三つ見る事見る事自分を見る事。四つ良い事悪い事、取次ぎを受けたら皆良い事。五つイライラ腹立つ時は神を外している時ぞと言う風にです、皆さんが一つ暗記しといて頂いてね。そして愈々ギリギリの所は、信心は親に孝行するも同じ事ぞやと言う事が、本当に身に付く事の為に、お互い信心をしておると言う事になるのです。そこで自分の願いと言う物が、どの様な筋が立っておるか。
 私が町議に当選すると言う事は、ね、親が喜ぶ事で御座いますからであり。私が当選する事は、吉井町の発展に繋がる事ですからという、言うならば内容を持っての願い方。そこにね、神様がお聞き届け下さらなければおられない程しの物が生まれて来る。ね、どうぞ只ただ自分の立身出世の事の為だけの、祈り願いであっては親に孝行するという信心にはなりません。信心は何処迄も親に孝行する事と同じ事と言う様な物が、すんなりと身に付いて来る事であります。
   どうぞ。